日々の話

想像の向こう側

その昔、私がまだ操縦教官になりたての頃に先輩教官から言われたことがあります。

「いいか、訓練生というものはお前が想像できる失敗は全部やる。そのうえでお前が想像もしない失敗を必ずやる」

この言葉を聞いたときは全くピンと来ていませんでした。だって「想像もしない失敗」なんて文字通り想像できないんだから。

で、しばらくはある程度訓練シラバスを進めた学生の教育を担当しながら、平穏に過ごしていました。

そして、ある程度経験を積み、初めて飛行訓練を行う訓練生も担当させてもらえるようになった頃に、遂にその時がやってきました。

その訓練生(仮にA君とします)は、乗り物の免許を一切持っておらずこれまで自分で運転したことがあるものは自転車のみ、というちょっと珍しい子でした。

私はそのA君の担当を任され、初めてのシミュレーター訓練の日がやってきました。

シミュレーターに乗り込むと手順に従ってエンジン始動。

所要の機器の確認を行った後、管制塔にタキシングの許可を取る模擬交信を行い、地上滑走を開始したところで事件は起きました。

駐機位置からタクシーウェイに向かうための旋回で、彼は反対方向へ曲がってしまったのです。

私はすぐに止まるように指示しました。

「A君、そっちは反対側だよ。ちゃんとタクシーウェイに向かわないと」

そう注意したところ、A君はやや緊張した面持ちで「は、はい!」と答えました。

「じゃあ、もう一回行くよ」

私は駐機位置へとリセットし、再度地上滑走を開始させたのですが、やっぱりA君は反対方向へ曲がってしまいました。

彼は、焦った声で「あれ?あれ?」と言いながら、さらに反対方向へ行くようにラダーペダルを踏み込みます。

 

ちょっとここで飛行機の地上における方向コントロールについて説明します。

大型の旅客機などであれば、首脚の向きを油圧で偏向させるステアリング機構が付いていて、それをコックピット内のハンドルで操作して方向を変えます。

小型機であれば左右の主脚のブレーキ圧を変えることによって向きを変えたり、ラダーペダルと首脚をリンク機構で機械的に繋いだステアリング装置をラダーペダルを曲がりたい方向に踏み込むことで向きを変えたりします。

 

当時使っていた機体は、後者の機械的ステアリング機構を持つ飛行機でした。

つまり、右に行きたければ右のラダーペダルを踏み、左に行きたければ左のラダーペダルを踏みこまなければいけません。

でもA君はなぜか行きたい方向とは反対方向のラダーペダルを踏み込むのです。

私は、一旦シミュレーターを止め、A君になぜ反対方向のラダーペダルを踏み込むのかを問いただしました。

するとA君は、キョトンとした顔でこう言ったのです。

「え、だって自転車は行きたい方向にハンドルを切るじゃないですか?」

分かりましたか?

そう、A君は自転車のハンドルを足で操作しているイメージで、曲がりたい方向と反対方向のラダーペダルを押し出したので、意図せず反対へ旋回してしまったのです。

パイロットの常識からすれば彼の操作はあり得ないことですが、自転車しか乗り物を知らないA君の常識ではそれは当然の行為なわけです。

先の先輩が言っていた言葉のとおりのことが起きたわけですね。

この出来事以降も、1年から2年に1回くらいは想像のナナメ上を行く、訓練生の失敗に出くわします。

でも、先輩の言葉とA君がしてくれた失敗のおかげで、いつでも構えられるようになり、今でもこうやって飛び続けていることができています。

一人ひとり、それぞれの人生に応じて「常識」というものが存在します。

自分だけの経験に基づいた常識だけにとらわれず、柔軟な思考でもって対応力を身に付けていきたいものですね。

ではでは

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